第六十五問[この慈しみは何処へ行く] つれないほど青くてあざといくらいに赤い 感想&考察

つれないほど青くてあざといくらいに赤い 感想&考察

玄関の向こう側に出現した怪異の呼び声から逃げるように、台所に逃げ込んだ知山アラタと為水ショウコ。
怪異の不気味な声を上書きするかのように二人の会話の途中、「邪視」というワードが登場する。
「邪視」とは何か?その病の正体を見る第六十五問。

邪視

怪異を見てしまう病のことを「邪視」と呼んでいたのは、どうやらショウコの親だけだったようだ。

そして、この「邪視」は無いものを視る目ではなく、別のものに見えてしまう目であるらしい。

いもしない幻を幻視させる目ではなく
目に映った何かを異形の様に映す病の兆候であるという事

出典:つれないほど青くてあざといくらいに赤い 第六十五問 著者:tomomi

それは、速水ミハヤが人ではないものに見えてしまうことを示しているかのようであるが、あまりにも矛盾の多い説明である。

アラタは七不思議狩りを通して、様々な怪異に出会ってきた。

それはほかの異形に見えていたわけではなく、誰から見ても等しい怪異がほとんどであったはずである。

だからこそ、アラタはこの違和感に気づいたのだろう。

誰からも等しく観測される幻覚など存在しないのだから、同じように怪異に襲われているショウコが、怪異を認識できているということは、これは「邪視」などではないのだ。

真実

アラタの推理によって、土地の逸話、そして目の前の怪異が解き明かされた。

怪異の正体は、幽霊となった土地の先祖たちであったのだ。

このエピソード、いや「つれないほど青くてあざといくらいに赤い」を通して、一貫して伝えられている感情、寂しい、という思いである。

ショウコたち新聞部もとい速水ミハヤファン俱楽部の面々がミハヤを崇め奉り、近づこうとするものを遠ざけていた。
ミハヤとの距離を縮めるアラタを糾弾していたところに、ミハヤが乱入し、直接「寂しい」という言葉を口にしていたのである。

そうして秘密に成りきってしまえば「存在しない」のと変わらなくなる
云いようによっては関心がないとも言えるじゃないか
それは少し……寂しいよ

出典:つれないほど青くてあざといくらいに赤い3巻 第十六問 著者:tomomi

土地の先祖たちにとっても、自分たちを遠ざけられるのが寂しかったのだ。

だからこそ、相手が見たいものを見せる怪異になり果てたのだろう。

その感情を知ったアラタが、怪異を放っておくわけがなかった。
体育館の白い手に対して感情をぶつけていたときと同じように、幽霊となった先祖たちに感情をぶつけたのだ。

捉え方次第だが、怪異が人を傷つけたかったわけではなく、ただ縋りついていただけなのかもしれない。

おわりに

町の逸話の一端を解き明かしたアラタ。
一方、その裏では町長が過激派がアラタに乱暴しないように説得しているので、まだ安全とはいいがたい。
次に襲い来るは、人か、怪異か、まだまだ油断ならない状況である。

そして、第六十三問、第六十四問の扉絵の写真だが、ショウコの母親が撮影したものかもしれない。

昔に私の親が撮ったという写真には時折
被写体の判らないものが混じっていた

出典:つれないほど青くてあざといくらいに赤い 第六十五問 著者:tomomi

これらにはぼんやりと人影のような姿が見えるが、扉絵は「邪視」を患った人から見える写真なのかもしれない。

次回、二〇二四年一〇月一八日更新予定。

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